牡 鹿 山 丸 遭 難 記

                                               船長 萱原 秀一
牡鹿山丸


 私の乗っていた船は2A型又は改A型と称し、A型を改悪した總噸(トン)数6800噸の後部に機関を有する標準船(戦時標準船:*1)であった。船員等はこの船を轟沈型とも謂い、或いは怪物船と称して乗船を好まず、鉄の棺桶の中に入る様に考えていた。
 機械は2000馬力のタービン船であったが、後進馬力は僅か500馬力で、機関に余裕がないために燃料炭が悪いと8節(ノット)の速力を維持することも困難であった。

 炭庫(燃料石炭積載庫)の容積は500噸であるから、10日の消費量しか持てなかった。随って遠距離の航海は不適当であったが、大東亜の広範囲に進出していた軍隊に、食料弾薬を輸送するにも優秀船は昭和19年の始めには無くなっていたので、止むをえずこの種の船が使用された。
 この船は二重底(*2)がなかった。商船は空船航海をするときは、二重底に海水を充満して喫水を入れ、風浪に堪えるように造られてあるのだが、総噸数6800噸の巨体にこの設備がないのだから、少し風浪があると船は風圧の為に横に流れだし、港内などの狭水面での操縦は危険この上もなく、その上、後進能力は小蒸気船位だったから、全くお話にならなかった。

 乗組員の居室もひどいものだった。一人部屋は船長・機関長と外に3つだけで、残りは全部合宿であった。船員が最も関心を払うのは居室である。単調な船内生活でしかも居室が悪くては不愉快極まるので能率も上がらなければ、長くその船には乗らない。
 船型は全く怪物の様であった。船尾を鋭利な刃物で切り取った型にして、船橋を函型に作り最上部だけ板を船横に置いた様に船横まで出してあり、船首材を必要以上に角度を保たし、煙突は船尾にあってその醜悪な船型は世界中の船舶にも未だかつて見たことはなかった。人智ではこれ以上醜悪な型には造れまいし、後世の海運史に残るであろう。
 こんな船で敵潜(敵潜水艦)敵機の中を往復する船員の労苦は並大抵ではなかった。魚雷攻撃を受けたが最後、避航することは殆ど絶望であった。   (中略)


護衛を断られる

 6月9日のことであった。新潟と佐渡の中間で2隻の商船が雷撃を蒙り、何れも沈没したとの報を受け取った。新潟在海軍武官府は半信半疑の態であったが、遭難船員の帰新によって遂に敵潜日本海に侵入の事実を承認せざるを得なかった。
 牡鹿山丸は6月11日新潟を出航して清津に向う予定だったので、この報に最大の関心を払わざるをえなかった。私は海軍武官府に出頭して事実を確かめ、航路指示を受け護衛を依頼した。ところが参謀は護衛艦不足につき独航せよと命令した。(但し多数の海防艦が七尾港に待機しており、新潟にも2・3隻遊んでいた)

 私は単独で出航すれば必ず撃沈の惨を見るであろうから、護衛の出来るまで待ちたい旨申し述べたが、駆潜艇によって敵潜制圧中だから心配はないとて聞き入れられなかった。
 従来の集団航行で数隻の海防艦或いは駆逐艦が直接護衛しても、どんどん撃沈されたのである。況んや1隻の商船が独航して無事に航海の出来る筈はないのである。しかも敵潜は確実に目前に待ち構えている。そして獲物は殆ど日本海にあるのだから、多数の敵潜が目前に侵入しているものと判断されなければならない。
 海軍当局は全力を尽くして唯一の輸送路である日本海の安全を図るべきであったが、相変わらず怠慢且つ専横であった。

 本船は陸軍輸送船であったので、私は碇泊場司令部にも独航は僥倖の外は撃沈されるに就き、考慮願いたい旨申し述べたが、彼らは海軍がよいと謂うなら出港せよと聞き入れなかった。
 私は戦時中を通じ陸海軍の商船に対する知識の不足、冷淡及び輸送の拙劣等々に対し甚だ遺憾に思うのである。商船の軽視(陸海軍の下級将校に多い)護衛の拙劣に加え、殆ど輸送に対する専門的知識の皆無たる軍人による船舶の指揮は、今次の敗戦の最重要なる点であった事を疑わないのである。

 兎に角出航命令という一枚の紙には絶対権があった。本船の今航のこの一枚の紙は死刑の宣告状である事は、最早疑う余地はなかった。
 避け得べき災害を避ける手段を取らず、無知にして横暴なる軍に対して、この時ほど無念に思ったことはなかった。同時に160余名の船員及び警備隊員等の犬死に対し憐憫の情禁じる能わず、本船への帰途も怒髪天を衝き心のやり場もなかった。

 私は全員に集合を命じ敵状の概況を告げ、厳重なる警戒と避難の場合に処する細々なる注意を与えた。
 6月11日午前10時、折柄密雲低く垂れこめ、細雨降りしきる中を出港した。視界は極めて不良であった。晴天には海上遥かに見ゆる佐渡が島も雲間に鎖され、港外に出るとはや新潟の像も雨中に隠れ、聞こゆるものは機械の音と船首に砕ける波の音に混じって「右何度浮流物、左何度何々」と見張員の報告の声。見ゆるものは方1哩の海上と後方に老い古けた1隻の商船とであった。   (中略)


雷撃で3分割される

 「面蛇」「・・・度の処宜候」之字運動(*3)の操舵号令である。「面蛇」「・・・度の処宜候」操舵手のアンサーバック(復唱)の終るや終らざるや、「どどどん!」地軸もさける様な轟然たる音、脳天を槌でグワンと打たれる様なショック、物の破壊転落の響き、龍巻のような水柱、鼻をつく火薬の匂い。たたきつける水の飛沫は船内に散り、目も口も開くことも出来ない。甲板上に伏せる者、機銃台から海中に吹き飛ばされる者、重傷者の呻く声、目も当てられぬ惨状である。機関は停止し電灯は消え、室内も甲板も一面に物は散乱し、歩行も容易でない。
 船体は急速に船尾を突っ込んでいった。魚雷は船尾機関室に3発命中したのだ。船尾ははや水中に没しようとしていた。船体の折れる異様な響きが一際目立って鳴り響き、人々の気持ちを嫌が上にも焦慮せしめた。

 「戦闘配置に付け!」。しかし敵潜の像は見えない。右舷か左舷か攻撃の方向すら判らなかった。源三位頼政が暗夜に時の帝を悩まし奉った妖怪変化の物を射るにも似て、数発の弾丸を目標もなく日本海に射り込んだ。敵は冷笑していたであろう。
 「射方止め」「総員退去用意」矩艇はすでに船体と共に沈没したようだ。筏の不足は艙口蓋で補え、食物は何に依らず持て、あわてて飛び込むな、と次々に怒鳴り回った。船員も兵も老いも若きも必死の奮闘であった。

 雷撃と同時に船内は3組に分割された。1の組は船橋及び船首に在った人々、2の組は機関室で当直中の人々、3の組は船尾居住区及び後部兵器配置の人々であった。
 比較的余裕のあった者は1の組であった。雷撃の瞬間海中の呑まれた者は2の組の人々であった。彼らは甲板下数十尺の機関室内で汗と油にまみれ当直中であったが、奔流する海水と物凄い蒸気、狭苦しい機関室で全員揉みに揉まれて殉職したのであった。22歳の青年二等機関士以下であった。

 船尾居住区に居た人々は室外に殺到し、狭隘なる通路を走って上甲板に出ようとした。しかし出口は満々たる海水と大きな渦巻であった。雷撃のため甲板はさけて後部船体は切断しようとしていたのだ。
 先頭の2・3名はこの大渦中に飛び込んだ。「前は駄目だ、後ろへまわれ」と怒鳴るものがあった。猶予はならぬ、通路はもはや膝を没する海水であった。
 粗悪な木製昇降梯子が折れた。その真下には入口1米四方の倉庫があったが、蓋は衝撃で吹き飛び大口を開けていた。数名の人々はこの地獄の中に転落した。引き出す余裕は無いのだ。生死を共にと誓った友を捨てることは忍び難い。しかし己の身も死の1秒前であった。


伝馬船で救援を求めに

 昨日に代わらず多数の筏は浮いていた。ただその範囲は余程拡大していた。私の筏は列の最後尾から2つ目であった。最後の筏とは1哩以上の距離があったが、今日は非常に接近していた。
 最後尾の筏には約20人の人々が集まっている様子であった。そして彼らは赤、青、黄と様々な色彩をした衣装をまとい、頗る奇態な様装で、ビルマや秦(タイ)国の僧侶を連想せしめた。彼らは万国信号旗を拾って纏っていたのであった。この異様な集団は数十米の処へ来た。手に手に棒切れを持って水をかき、一隻の伝馬船が筏を曳航していることが判った。
 私は天にも昇る心地がした。神仏の加護か、あの伝馬船のあるかぎり我々の救助は必ず成功するに違いない。否成功せずば止まぬと決心した。

 彼等は私を捜し求めるため、一昼夜の努力で漸く彼等に最も手近な筏に漕ぎつけたとの事だった。お互いは無事を祝し今後の方針につき協議した。私は従来考えていた事を堅き決意を示して彼等に話した。
 話はたちまちの内に纏まって、12名の屈強な人々が選抜され、私が指揮者となって南東80哩の佐渡が島まで漕ぎ着け、救助を依頼する事となった。
 しかしこの伝馬船に櫓はなかった。僅か1挺の櫂があるだけだった。伝馬船の敷板を割って数本の櫂が作られた。食料とては1粒の米もパンも1滴の飲料水さえなかった。

 6月13日午後6時、希望に満ちたしかし困難なる仕事は始まった。送る者送らるる者互いに成功を祈り、或いは鉄鋼の如き決意を以って出発した。6挺の即製櫂で力任せに水をかき、一本の櫂は舵の代用にされた。腕巻き磁石1ケは我々の目であった。進路を南東に向け力漕した。その日の夕刻遥か前方に摺鉢大の陸影が見えた。雲か霞かと疑われるかすかな島影ではあったが、20有5年海上生活で訓練した目は、決して見落としはしなかった。

 佐渡が島であることは絶対に間違いはないと思った。一同の士気は上がった。明朝は余程接近しているだろうとの希望に満ちて、疲労した身体にむち打ち、お互いに激励しながら力漕を続けた。夜間は星を目標とし磁石に代えた。
 夜明けが待ち遠しかった。しかし明け方に見た島影は、昨日の夕方よりやや大きくなっているにすぎなかった。   (中略)


飲まず喰わず必死の力漕

 14日も過ぎ15日も暮れた。夜も昼も1分の休みもなく漕ぎ続けたが、目的地は遠い。我々の成功を祈って筏で待っている人々は待ち遠しいであろう。急がねばならぬ。頑張らねばならぬと思いながらも体力は消耗し、少しの風浪にも前進力を失い、ともすれば押し流された。
 喉の渇きは猛烈であった。全く堪えられぬ。人々は海水を口に含んだが、一層甚だしく一時の押さえにも役立ちはしなかった。流れ来る海草を拾っては噛み、噛んでは吐いた。少量の否一滴の清水の味を求めるためであった。この状態では果たして目的地まで頑張れるのだろうか、我々の力では最早望みはないのではないかと弱気になった。
 しかし後に残った人々は我々を唯一の頼みとして、苦難と闘っておるであろう。100余名の生命を救助するも殺すも、一にかかって我々の行動にあるのだ。必ず成功せしめねばならず。たとえ1人たりとも生き残れる限りは、この目的を完遂しなければならぬのだと己に鞭打ち、互いに励まし力漕を続けた。

 しかし10分と経過しないうちに、水が欲しい。一杯の水があればなあと誰かの口から漏らす言葉は同様だった。誰も彼も思いは同じだった。しかし幾ら欲しようとも水は無いのだ。鉄石の意思こそ泉をも作り谷川をも造る。そうだ、櫂を置いてあの島を見よ、我々はここまで漕ぎ着けたのだ、もうあと一息ではないか。幾ら遠くとも4・5日とはかかるまい。あの島には水があるぞ、何処でもよい上陸すれば谷川の水が呑める、谷川が無ければ土を掘って水を出そうよ、否々草を食っても水分は充分ある、頑張ろうよと又も漕ぎ出し続けた。

 16日となった。遭難以来4昼夜余、伝馬船で連絡を取るべく漕ぎ始めて3昼夜である。疲労は急速に増しつつあった。頬の肉は落ち、目は異様に光、物凄い形相である。ただ機械的に櫂を漕ぎ続けている。
 その日の夕刻には佐渡の谷々や海岸を見るまでに漕ぎ着けた。明日は到着出来るであろう。幸いにして相変わらず天気は上々であった。もう1晩の辛抱だ、頑張ろう。
 その夜は佐渡の山々から吹き下ろす風に波も立ち、船はなかなか進まなかった。呼べば答える程近い島を見ては、最後の精力を出し尽くせと漕ぐのだったが、櫂とは名ばかりの板切れであり、漕ぎ手は5昼夜あまり一食喰っておらず、しかも不眠不休で労働してきたのだ、舟は進まぬのも無理はなかった。

 明くれば、6月17日午前5時、そぎ取られた断崖絶壁の海岸に入江が見える。伝馬船は這うようにこの入江に入った。天佑神助と不撓不屈の精神とが、絶望の悲運を切り開き、待望の目的を完遂したのであった。
 ここは相川町の隣接村小川という半農半漁の小部落であった。部落の人々は見慣れぬ伝馬船に、此の世の人とは思われぬ形相の一団が、早朝侵入してきたのを見て、怪しい者どもと思ったのか寄り付かない。村の古老が分別顔に数米離れて我々を見守っていた。


村人の手厚い看護

 我々は水、水、水を飲ませて下さいと鮮やかな日本語で嘆願した。日本人であることを知って早速手桶一杯の水が運ばれた。13人の人々は次々に息もつかずに飲んだ。見る見る中に一滴も残さず飲み干した。事情を聞き伝えて村人は集まり、洋上に待つ友の救助手配は警察から武官府へと早速行われた。
 老婆は目前に見る我々の像を見て泣いてくれた。翁は擦り切れた櫂や伝馬を眺めては泣いてくれた。集まった老若男女ことごとく涙を流し、我が子我が夫の帰ったように歓んでくれた。
 手厚い看護を受けたことは言うまでもなかった。鬼をもひしぐ海の子も人の情けに涙を流し、人情の触るる処これよりも美しき楽しき事はない。子々孫々に至るまで相伝え忘恩の輩となってはならぬ。

 一方筏上の人々は更に悲惨であった。今日は救助船が来るか明日は漁船なりと見当たりはせぬかと一日千秋の思いをなし、空飛ぶ鳥を見ては飛行機と紛い筏打つ波の音を聞いては船かと思い、待てど暮らせど訪れるものは鴎の外には何物も無かった。
 一片の雲を見ては風が吹きはせぬかと憂い、雨にならねばよいと願い、身を横たえる所とてない板の上に、日中は酷暑と闘い夜間は寒気に震え、食は尽き、水は無く、喜界が島の流人俊寛僧都の嘆きも之には及ばなかったであろう。
  薩摩湾沖の小島に我ありと
       親には告げよ八重の潮風
とよんだ康頼入道の心の内も今は我身に比べてさこそとは思いやられた。

 15日も過ぎ16日も暮れたが、洋々たる海上には同じ運命の筏の外は何も見えず、遂に運命も尽き果てたかと不安は募るばかり。張り詰めた心も漸く緩み始めて、言葉を交わすのも物懶いて行くばかりであった。
 又も一日は憂愁のうちに過ぎて17日の朝となった。遥か水平線上に船らしきものが見える。次第に船影は大きくなってきた。救助船だ!船だ!船だ!と歓喜の声は筏から筏に広まり、人々は手に手に上衣を持つものもあり、帽子を振るものあり、万歳の声は海面を覆っていった。


敵潜の蹂躙に遭う

 しかしこの喜びも束の間であった。接近する船影は潜水艦らしい、指令塔も見える。船尾の下がり具合、櫓の様子、紛う方なき潜水艦だ。敵か味方か、運命の定まるところである。
 あっ!星条旗ではないか、敵潜だ!艦上には自動小銃を構えた兵等が並んでいる。万時窮す。5昼夜余にわたり一縷の望みを捨てかねて、苦闘に苦闘を重ねたその末はこれであったか。
 敵潜は1隻又1隻とその数を増し、遂に4隻となった。各艦は全速力で筏の間を右往左往し始めた。大きな波の波紋がつぎつぎに筏に押し寄せる。板を重ね人の重みだけで辛うじて分解を防いでいる筏は崩れ始めた。

 ある者は海中に転落し、転落しては這い上がった。消耗した身体に鞭打って筏を組みなおし、筏上への這い上がりは容易な業ではなかった。此処其処の筏では既に体力尽き果てて、恨みを呑んで死んでいく人たちも続出した。
 射殺はしなかった。しかし射殺に勝るこの苦しみ、殺すならひとおもいに殺してくれ、なぶり殺しは堪えられぬと思った。

 斯くして数時間は過ぎた。余命幾許もないであろうと、最早誰も観念した。午後2時頃であった、又もや水平線上に船影が見える。2隻のようであった、全速力で来るらしい。 船影は見る見る大きくなってきた。敵潜は全速力で退避行動を取り始めた。突如砲戦が開始された。ああ味方だ、救助艦だ。マストにひらめく軍艦旗は紛う事なき日章旗である。海防艦は白波を蹴りたてて猛犬の兎を追う様な凄まじい勢いで来る。敵潜は潜没して影も見せなかった。

 万歳!万歳!、歓喜の声を喉もさけよとばかり張り上げ、疲労の身体とも見えず、手を振り足を踏み鳴らし、歓びその極に達し、涙は頬を流るるを拭きもやらず、狂わんばかりであった。
 救助は始まった。筏から筏へと艦は渡りあるき、翌日18日の午前9時、生存者100名は救助された。
 此処にも麗しき同胞愛はあった。艦長以下全員の温かき物心両面に遭難者等は感激し、且つ救われたのであった。
 遭難以来実に6昼夜に亘る苦闘の顛末である。


【萱原忠一・注記】

 これは当時の牡鹿山丸船長「萱原秀一」が、昭和21年7月に当時の粗末な紙に書き残したものである。当人は生前、戦争中の出来事については語るを好まず、又こんな手記を残していることも語らずに昭和61年に84歳で没した。
 遺族がこんな手記類を見つけたのも最近のようである。その中にはこの遭難より1年前の昭和19年5月6日、船長として乗船中の天津山丸が、インドネシア・メナド沖にて魚雷攻撃により沈没、漂流、九死に一生を得たことも記されている。運の強い人であったかも知れない。

 たまたま今年は終戦50周年の記念の年でもあるので、この「牡鹿山丸遭難の記」を複製して関係者にお送りし、故人の労苦を偲んではと考えた次第である。 
     平成7年12月   萱原忠一(萱原秀一甥、大正14年生)

                             (戦没船を記録する会・会報第11・12号より)

【事務局注】

 本記録は現代平文とは多少異なりますが、全文の構成・文体が1つの形・流れを持っていますので、部分的な手直しはよくないとの判断に立ち、原文のまま掲載することとしました。ご了承の上、ご判読をお願いします。

(*1)戦時標準船=ここで言う戦時標準船とは、太平洋戦争中の日本で、量産を目的に計画・建造された船舶です。

 船腹需要の激増に伴い、船舶増産を実現するための船型で、国家の規格により同型船を計画建造することで、建造に要する時間の短縮と資材調達の便を図る目的がありました。  第二次以降の戦標船では量産性向上と資材節約のため性能・構造・艤装が大幅に簡易化され、特に速力・耐用年数・信頼性は低下したものでした。

 戦時標準船は第4次までの計画があり、大きく分けて27種の船型が計画されました。終戦までに完成したのは1,000隻余りです。
 この他に鉄道連絡船や陸軍の特殊船など11種44隻、エンジンを持たない被曳航油槽船50隻、漁船、木造船、はしけ、コンクリート船などが建造されています。

(*2)二重底=一般的に船舶は、空船時の船の動揺を軽減するため船底に海水を注入します。また、船体の強化のため船底を2重構造にします。第2次大戦中に急建造された船は(*1)のうように、二重底が省略されました。

(*3)之字運動(航海)=潜水艦等から砲撃・雷撃の照準とされるのを防ぐため、ジグザグに進路を変えながら進む運動(航海)。

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