白陽丸乗船の父のこと
                     秋山 真子
                      

 先日、白陽丸と飯尾光次郎(私の父)につき問い合わせましたところ、早速ご丁寧なるお返事を戴き、厚く御礼申し上げます。

 ご配慮により朝日新聞社の土井全二郎様よりお電話を戴きまして、白陽丸沈没の際生還されました東野清一様と連絡がつきまして、東野さんは「私は貴方のお父さんの最後を見ました」といわれました。秋にでも出来れば尋ねてみたいと思っています。

 「ダンピールの海」と共に送って下さった駒宮真七郎様の本のコピーは、東野さんから伺った電話の内容と共に、父の最後の状況を知る手がかりで、私の終生の慰めとなります。

 父は愛媛県周桑郡庄内村の生まれですが、老後、船から降りたら郷里で暮らす日を楽しみにしていました。平成5年頃に村の有志の方々が、終戦50年を記念して、海で戦死した人たちを追悼し、何処でどの様にして死んだのか、家族も何も知らされていない現実や、終戦と共に殆どかえり見る人もなく、語り継ぐ生存者も絶えてゆくので、これを時代と共に風化させず、記録して戦争の悲惨さを後世に伝えようとの趣旨で、『記録海錨会』という戦死者の家族の思いを集めた会誌が発刊されたことがあります。

 私にも父の生家から依頼がありましたが、何を書いて送ればよいか、母が生きていれば又少しでも色々な事が分かるとも思いましたが、幼い頃「小学生低学年」の記憶を辿りながら、分かることのみ記入して送りました。その時東京の、大阪商船三井船舶海務部へも問い合わせましたが、公報程度の返事がありました。

 また、父は支那事変では東京丸(大阪商船)に乗船して、バイアス湾の敵前上陸に参加し、兵隊さんや物資を輸送したと聞いていますが、大阪商船三井船舶ではその記録ももはやないとの事でした。この時の功によるものと思うのですが父は、勲五等雙光旭日章(昭和15年)と、勲四等旭日小授章(昭和44年)を受けています。

 東京丸はニュース映画にもなり、母と大阪松竹座へ見に行きました。どういう活躍をしたのか詳細を知りたいと思います。思い出の記を海錨会にちょっと書きましたので、思い違いをしていれば、編集者の方に訂正したいと思います。こま切れの様な記憶を寄せ集めて書くのは、わずかな事でも大変でした。

      (戦没船を記録する会会報第16号(1997年発行)より)

:写真およびその説明は事務局が付加した

 

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