戦時下の商船学校教育

              第5回「戦時海運研究会」 講師 浦田乾道弁護士
 
 
第5回戦時海運研究会では、題記について清水高等商船学校の教育について、同校に昭和18年に入学し、卒業された浦田先生にご講演をいただいた。
 
 
昭和18年4月30日に入学した。当時の情勢は、昭和12年7月に日中戦争がはじまり、14年欧州戦争、16年12月真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。だが1年経つと押し返されていき、消耗戦となり物資不足の補充が切実になってくる。17年5月平島逓信大臣が、高等商船学校の1〜2校増加を提案、当初清水、宮崎案があったが清水に決定。
 
入学募集は16年まで東京、神戸2校で、春、秋2回。12年まで入学者は、航海科25名、機関科25名であったが、戦争の推移とともに少しずつ増えて、16年東京・航海科90名、機関科90名、神戸・航海科93名、機関科94名、17年は東京・航海科125名、機関科80名、神戸・航海科134名、機関科95名であった。18年は春だけの募集となり、航機合わせて清水600名、東京250名、神戸250名で、翌年は清水1校となり、2期生は1,800名という大集団となる。
 
学習年限は5年半。学生の軍籍は予備生徒、卒業すると予備少尉となる。航海科は横須賀の海軍砲術学校に於いて、卒業前将校教育が課せられた。また機関科は海軍工廠、民間で各6ヶ月の実習、航海科は乗船実習1年の5年半で卒業。
 
校内教育は、清水の場合、校長は海軍中将、教頭は東京高等商船出身、生徒隊長以下4人は職業軍人、分隊指導官は召集中の予備士官の先輩。1分隊50名12分隊で600名、清水では航海、機関別の分隊分けはなく、混ぜて生活し、マークもつけずに1年間一緒にやっていた。2期生が入ってきてから航海、機関別の分隊に分けた。
 
教育内容は別紙。教育時間4,284時間。夏、冬休み10日だったが、2年度からはどちらかの休みがなくなった。勉強する時間はあった。
 教育行事は商船士官、予備士官としての体育強化行事として行われた。日課表(別紙)大体このとおりであった。ラッパで起床し、時間に追い掛けられて走り回っていた。学校の敷地は20万坪もあり、教室までずいぶん走らされた。15時まで6時間勉強し、後1時間訓練、そして自習時間があった。通路の左が洗面所、右側が分隊自習室(温習室といった)。その2階が寝室。夏は柱に蚊帳をつったベッドで寝た。
 
 分隊教官の駒沢さんは、東京の航海科111期出身で、応召中の海軍予備中尉だったが、商船士官のプライドを持っていた。君たちの将来は商船の世界だと毎日のように話した。商船士官は召集されれば海軍でちゃんと仕事が出来るよといっていた。惜しいことに海防艦の航海長に転出され、戦死された。
 2年になると海軍機関学校など、海軍の学校に派遣された。上等兵曹の教官は、給水ポンプの性能など、驚くほど良く知っていた。繰り返し教育を受けてきた有能な下士官であった。又砲術学校では、軍隊に入って下級将校の仕事をさせられてもまごつかないように、下士官、兵の考課表の作り方も習った。
 海軍はその技術や艦の性能を自慢していたが、しかし舞鶴の工廠の技術では、ドイツの商船の高圧パイプや高圧ボイラー、ロータリーポンプ、精密工作技術などついて行けず、ドイツの商船技術にも劣っていたと思う。
 入学当時良く分からなかった海軍か商船かの問題は、訓話があるたびに予備士官と商船士官の2本だての話があり、そのうち段々とどっちが自分達の進むべき道か、という意識が芽生えてきた。当時の日記を読み返すと、私は職業軍人になる気持ちはなかった。
 しかし学友の中には、陸軍士官学校、海軍兵学校、満州軍官学校に入学出来なかった者が、予備士官ならと入ってきた者や、徴兵にかかりそうだから、それを逃れるために入ってきた者もいた。2期生は半数くらいは高専や早稲田などの中退者がいたと言われ、また一高中退者もいた。
 戦後ある文官の教授から聞いた話では、我々一期生の入試考査後、清水の教官室に成績順の名簿が張り出されているのを見た。その名簿には所々赤線を引いてあり、名前の特徴から、それは朝鮮人であった。それまで東京、神戸とも入学出来たはずだがと上司に尋ねると、本校の卒業生は全員召集され、帝国海軍士官として、指揮命令する立場であり、朝鮮人士官では問題が生ずるという説明であったという。しかし、東京、神戸卒の朝鮮出身の先輩は、韓国独立後、韓国海軍を創設しているのだ。
 駆逐艦見学に行った際、機関室の見学をした。ガットを下りたところが指揮所で水密隔壁のドアの向こうが現場である。海軍は下士官、兵は1人づつ機器を担当しており、商船の機関部とは異なっていた。すごいと思ったことは、一朝事ある場合、指揮所を通らなければ外へ逃げられない仕組みになっていたことである。
 いまから考えると高等商船学校は、昭和18年1,100名、19年1,800名、20年1,800名採用したわけだが、卒業生をどこに持っていくつもりだったのか。本校の他に地方商船があり、そのほか専科とか分校、そして短期とかがあった。これらの人々の予定された職場はどこに求められていたのか。
 清水の仕組みは海軍用第一線下級幹部養成で、消耗の激しい小艦艇向けで、商船向けは東京、神戸出身者だったと、後日先輩に冷やかされたことがあった。
 清水の特色は、新設校なので上級生がおらず、良い伝統は持ち込み、悪いものは是正しようということで、例えば航海、機関を区別、差別しないというスタートにあったと思う。
 勉学するチャンスは十分に与えられたと思っている。後にぼりばあ丸裁判弁護士として関わったが、船体構造上の問題点など、粗末な校舎、粗末な教科書で勉強したにしては、教わったことは大いに役立ったと思っている。
 戦争が終わったとき私は、満18歳と9ヶ月であった。

             (戦没船を記録する会会報17号(1998年発行)より)
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