不滅船 神盛丸遂に撃沈さる

                                                中新 一郎氏

 カムラン湾(編注:現ベトナム)で暫らく待機。敵情報待ちの結果「良好」とのことで出港する。海南島まで直行となる。無事海南島のユーリンに入港する。そこで、これより台湾高雄へ向かえ、との指令あり、船団は南支那海沿いに台湾に向う。敵潜(敵潜水艦)出没の情報もなく、たまたま米偵察機が高く飛んでいただけであった。

 12月31日大晦日である。今日はデッキ
(甲板)で餅つきがあった。明日は高雄入港である。久しぶりに見た高雄の様子は、あの航空戦以来連日の空襲で沈没船が沢山あり、岸壁には燃えてただれた残骸が3隻いる。砂糖倉庫が焼かれ、岸壁には砂糖のとけた跡が黒く流れている。

 昭和20年元旦の祝杯を上げる間もなく空襲警報が発令される。
 高雄上空は敵機で一杯となった。どれくらい来襲したのか。正月のお年玉は爆弾であった。グッと突っ込んでくるグラマン
(敵戦闘機)めがけて各船や陸上より射ち上がる高射砲の弾幕で空が黒くなる。
 25ミリ機銃の曳光弾は、火鉢の焚火を叩けばパッと火の粉が飛ぶような状況である。見えない弾丸がこの数倍射ち上げられているのだ。この中を敵機は突っ込んで機銃掃射していくのだ。当たらない。

 我々は弾薬箱の運搬に奔走する。「武蔵」乗艦経験の鬼の一曹は指揮棒を振り上げ「撃て撃て」と叫んでいる。銃身が焼けるのでウエスを水で濡らして冷やす兵隊、それぞれの部署で戦闘を繰り返している。決戦なのだ。
 やがて敵機も去り空襲警報も解除されたが、幸いにして本船は1発の被弾もなく健在であった。他船はどうだったろうか。主に港外の船が狙われたようだ。黒煙が上がっている。

 空襲の間隙を見て積み荷が始まった。4番艙に米が積み込まれる。半分程で中止。次は爆弾であった。全長3メートル、直径50センチ、これが日本で一番大きな爆弾で、胴体に白線が一本記入され、不気味に感じた。鮪を並べるようにして6発積み込まれる。その上にまた米が積み重ねられた。これが爆発したらと思うと身の毛がよだつ思いがする。

 1月3日高雄港を出港する。港外には社船の橋立丸が投錨している。橋立丸を一周し、お互いの無事安航を祈りながら手を振って別れる。
 船団隊列も整い、行く先は比島
(フィリピン)リンガエン湾であるが、船団はバシー海峡を避けて南支那海のアモイまで行き、敵状況を見た上で比島を目指したのである。
 その頃米機動部隊も同じくリンガエン湾を目指していた。あと1日の差が我々の運命を変えたかも知れない危機一髪の状態であったのだ。

 米軍は比島上陸の目的をもって来たのだった。
 1月7日船団は台湾に向け逃げ帰ることになった。米軍の上陸は8日であった。


遂に被弾

 その晩、10時頃大音響とともに大振動し、ベッドから投げ出された。「やられた!」ああとうとう我が船も魚雷を喰ったのか!と、一瞬「死」が頭の中を駆け巡ったが、こうしてはいられない。救命胴衣を着用し、日頃より遭難に備えて貴重品の腕時計などは衛生サックに入れ、防水を施してあり、また学生時代の写真をポケットにねじ込み、上甲板に走り出た。煙突から安全弁の蒸気がモウモウと吹き上げている。蒸気のある間にヘビィデリック
(重量物載荷機)に吊った大発艇を降下。

 ボートデッキ
(ボート甲板)に駆け上がり、ボート(救命艇)を降ろす。自分は左舷艇であった。上甲板はもう波に洗われている。総員退去の発令が降ろされる。各自それぞれのボート及び大発艇に移乗する。私はボートホール(ボート昇降索)のブロック(滑車)を外し、ボートホールを握っていた。

 ボートの振動のためか、上下している間に左指3本がブロックとホールの間にギッチリと挟み込まれてしまった。どうしても指が抜けない。「痛い痛い」と叫ぶ。島崎操舵手が「一郎が大変だシーナイフを出せ出刃はないか」とホールを切断しようとするが、ロープが4本もあり固くて切断することが出来ない。その内ボートは離れて行き、自分はブロックに挟まれたまま、空中にぶら下げられた形になってしまった。

 沈み行く船に手を挟まれたままの状態で「俺はこの歳で死んでいくのか」と思った。実際今思うと、この時地獄を見た感がある。


九死に一生

 数分の間であったのだろうが、随分長く感じた。その時、ド〜ンと大きな波が押し寄せ、身体を持ち上げた瞬間、ギッチリと挟まれていた3本の指がスポッと抜けたのであった。「助かった」。離れて行くボート目指して泳ぎに泳いだ。ようやくボートに掴まったが、なかなかあげてはくれない。「手が痛い、早く上げてくれ」と叫ぶと、ようやくボートの上に収容してくれたのだ。

 神盛丸はデッキを波に洗われながらも、なかなか沈んでいかない。大発艇とボートを本船に係留し、様子を見ることにした。冷凍船の構造はなかなか沈まないように出来ているのだろう。

 遭難の状況は、米機の爆撃による至近弾により機関室外舷に破孔、見る見る間に機関室は水で一杯になったようだ。今のところ死者はなし。負傷は自分一人である。だが、天馬舟で逃げた高橋操舵手、富田3通
(3等通信士)、小高、昆両甲板員、吉田機関員の姿がない。
 自分の左指3本は、付け根より皮が剥け、爪も全部剥がれ、赤身が出て坊主になっている。痛くて痛くてかなわない。

 数時間後、夜明けとともに救助艦の姿が見えた。舞鶴所属の千トン未満の小さな掃海艇20号で、120名の本船乗組員は身の置き所がなく、艦内の通路にしゃがみこむよう詰められる。昨夜の左指を見ると、人差し指、中指、薬指の3本は皮が剥け、爪もなく、痛いことこの上なしだ。軍医に治療していただいたが、熱が出て肩までは腫れ上がり、ちょっとの音でも心臓に響く。

 3本の指は40年過ぎた今でも、しっかり伸びないままだが、不思議に爪も生え、皮も指紋も元通りの状態に回復している。但し一度生えた爪は形が悪いとかで、内地の医者が再び剥がしてまともな形にしたのである。傷が良くなってから風呂でゆっくり曲げ伸ばしの治療を半年やった。

 掃海艇20号に乗り移ったが、天馬舟の5名はどの方向に流されているのだろうか。付近には影さえ見えない。神盛丸はまだ浮いていたが、水兵達が機銃等を取り外すため、乗り込んで作業中にゆっくりと沈み始めた。

 40年後の今でも瞼に浮かぶことは、八和田先任上等兵曹が沈み行く神盛丸に向って「敬礼」の号令をかけ、ラッパ手がふく「国の鎮め」の響きの中、神盛丸は船尾より沈み始め、垂直に立ち上がり、大音響とともに四つの水柱を残して、南支那海に沈んでいった。全員大粒の涙を流している。
 決戦場比島揚げの食料も、特攻隊用の爆弾もその任務を果たすことなく、海底深く沈んでいったのである。


全員救助

 これから5名の行方不明の天馬舟を探さねばならない。潮流の方向に艦は見張りを立てて随分長い間捜索に務めたが全然見えない。
 船長は艇長に「あと暫く」とお願いした。しかし、艇長は「もう、諦めては如何ですか」。人情家の船長は「あと5分だけお願いします」と言った。

 艇長は黙って「反転」と命じた。
回り始めた時、水平線に黒煙が上がった。天馬舟が打ち上げた信号弾であった。
急遽全速で5名を救助する。これで全員救助されたのである。



編注:神盛丸について

 4,758総トン、日本海洋漁業所属。1945年1月5日16時高雄発―日本向け中、7日2215頃
 22-40N・118-05Eの洋上で敵機の空爆により航行不能となり、やがて沈没した。

編注:艇長=太平洋戦争中、軍に徴用された船には軍人が「艇長」として乗組んでいた。


                                  (戦没船を記録する会・会報第4号より)

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